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酒巻和男とクラウドファンディング [八月が来るたびに]

 以前紹介した、九軍神になれなかった酒巻和男さんですが(「捕虜第一號」と「約束の海」)、酒巻さんの二つの手記を現代仮名遣いに直した本が、酒巻さんの出身地である徳島の出版社から数量限定で刊行されているようです。


 

 そして、酒巻さんが属していた”特殊潜航艇”の訓練地であった、愛媛県の伊方町に記念碑等を整備しようというクラウドファンディングも行われているそうです。



 こちらは、5,000,000円の目標に対して、残り115日で8割方集まっているようです。(R3年12月6日現在) ファンドの返礼品として、先の「酒巻和男の手記」のほか、愛媛のミカン関係の品もあるようです。 伊方の訓練地は山崎豊子さんの絶筆 「約束の海」のクライマックスで登場する予定だったんですよね。 記念碑の整備が済んだあとに訪れてみたいものです。


(R3年12月13日追記) 上記の酒巻和男さんの記念碑ですが、R3年12月8日に伊方町の九軍神記念碑のそばに無事建立されたそうです。 なお、クラウドファンディング自体はまだ継続されています。 今日時点で、残り108日。 目標金額の85%まで集まっています。


(R4年1月1日追記) 上記のクラウドファンディング、期限まで80日以上残して目標額達成しました。 12月8日の記念碑建立を伝えるニュースなどで酒巻さんのことを知った方が多かったようで、酒巻さんの後輩に当たるトヨタ自動車中南米本部の方々もCFに参加されたようです。

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皆実町に行きました [八月が来るたびに]

 今年の8月6日、私は広島にいました。 皆実町まわりを巡る用があったのですが、この日になったのは 全くの偶然です。 広島駅から”まちのわループ”という巡回バスに乗ります。 

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このバス、ルートを見ると... ”病院巡回バス”のような性格があるようです。 その一方、途中に「夕凪の街」の登場人物にゆかりの街を巡っているかのようでもあります。 霞郵便局前を通って旭町、

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翠町...

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 そして皆実町。 どうやら「夕凪の街」の登場人物、特に平野家の子供達には、こうのさんが通われていた広島大学の旧広島キャンパスまわりの地名が採用されているようです。

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 で、お父さんの”天満”やお母さんの”富士見”、そして”平野”は皆実町の西側、川向こうのものが採用されているのかなって思ってたら・・・ 見つけてしまった、「お好み焼き ひらの」!(皆実町)

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 ひょっとして、平野皆実の名前のルーツは このお店?? ちなみに、広島お好み焼きで唯一無二の ”ご飯入り”というメニューがあるそうです。 J-リーガーや手越祐也のサインがありました。 そして、この地で忘れていけないのが、後ろに見えるレンガ造りの建造物。

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 広島陸軍被服支廠跡、被爆建造物です。 今、保存に向けての話し合いが進められています。 原爆の調査をしていた こうのさんが、この地を訪れて... たまたま お昼にお好み焼きひらのに寄って... という想像が...


 さて、私が今回 皆実町を訪れたのは、この地の住環境を調べるため。 将来のJターン先の候補として検討しているのです。 交通網が発展してて、文化施設に容易に行けて、近くに美味しいお店があって、川が近くて、何より ゆめタウン。 

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 昨年末にマークしていた3階建て・ホームエレベーター・屋上テラス付きの物件、見学の申し込みしたらタッチの差で売れてしまいました。 今は何かのオフィスになっています。 この辺は広島大学の下宿が多くあったそうで、売り地や空き地もちらほら見かけました。 今回は下見のみで、引き続き物件をマークしましょう。

 皆実町散策のあと、市電に乗って本通駅へ。 今回のもう一つの目的です。 西1入り口からアストラムラインへ降りていくと、

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 あった、「夕凪の街 桜の国」のステンドグラス。 本当は早朝の人のいない時間帯にもう一度撮りに来ようかなと思っていたのですが、しかし、広島の人には特に目新しいものでも無いのか、ステンドグラスの前で歩みを停める人はいませんでした。

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 8月6日、本通にて。

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8月6日 広島より [八月が来るたびに]

本日の本通駅。 特に立ち止まる人もなく。
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「捕虜第一號」と「約束の海」 [八月が来るたびに]

 今年の夏休みに読んだ本。

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 「海街diary」じゃなくて、酒巻和男著の「捕虜第一號」です。

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 昭和24年11月15日発行という大変古い本です。 地元の図書館に蔵書があったので借りたのですが、外装がボロボロなので、ブックカバーに入れて大切に読ませていただきました。 酒巻和男は、謎の”第23回(20年正月)”の 『ホ』の札に紹介された、特殊潜航艇に乗って真珠湾湾内突撃を目指した10名のうち、ただ一人生き残り、「九軍神」にならなかった代わりに 太平洋戦争における”日本軍人の捕虜第1号”となった方です。

 彼の数奇な運命に惹かれた 作家の山崎豊子は、彼女の絶筆となる小説「約束の海」の主人公の父親のモデルとして彼を登場させています。 というよりも、「約束の海」自体が、自身の最後になるであろう作品の主人公として酒巻を描きたいがゆえに、過去編の主人公となる酒巻に対比する形で、”ある事故により重い十字架を背負った現代の潜水艦乗りの自衛官”として、現代編の主人公の花巻朔太郎が設定されているのです。(同作のあとがきなどによる)

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 山崎の死去によって第1部にて終了した同作ですが、構想ノートなどによれば、第2部では花巻の父 ”和成”の戦争体験、すなわち、真珠湾攻撃から日本兵捕虜第1号になって米本土の収容所暮らしの中で日本人としての自分を見つめ直すという、まさに酒巻の戦争体験が語られます。 そして、かつての特殊潜航艇の訓練地である宇和島の海を見ながら、親子で真の平和を実現することを誓いあう姿が描かれます。 続く第3部では、潜水艦艦長となった朔太郎が父との約束を胸に、東シナ海の水面下やアジア各国で平和を守るための静かな戦いに従事する姿が描かれるという壮大な物語となる予定でした。 完成していれば(映画化もされたでしょうし)、我々日本人が平和とは何か? 国を守るとはどういう事か?を、あらためて考え直すきっかけとなったでしょう。 本当に未完のまま終了したことが惜しまれる作品です。

 さて、「捕虜第一號」に話しを戻すと、こちらは酒巻が真珠湾攻撃に参加し、捕虜となって米国本土の収容所を転々とした後に帰国するまでが、4章構成で描かれています。 第1章では、酒巻が海軍に入隊した後に”特殊潜航艇(甲標的)”の乗組員に選抜され、厳しい訓練の後に最初で最後の実戦である真珠湾攻撃に参加して捕虜になるまでが記されています。 コンパスが故障した艇を必死に操作しながら真珠湾内突入を目指して奮闘する姿が、当事者でしかわからない生々しさで描かれるとともに、華々しい航空打撃部隊の活躍の影に隠れた”特殊潜航艇”の作戦行動を記録した、歴史的にも非常に貴重な証言です。

 第2章は、はからずも日本軍人の捕虜第一号となってしまった彼が、米本土内の収容所生活の中で いかに再生していったかが描かれます。 大戦中とは思えない収容所周りの大自然の描写や、帰国までに彼自身が移送された複数の収容所について書かれています。 第3章では、収容所内の日本人捕虜(米国在留邦人も含む)の暮らしぶりが詳細に紹介されています。 日本軍の階級制を利用しながらも、統率された誇りある捕虜生活を模索する花巻達の士官組に対し、もはや軍の階級などお構いなく実力(腕力)主義に走ろうとする者たち(単に荒くれ者だけでなく、大戦後期の非軍属の徴用兵も多かった)。 自らの保身のために階級偽装や、他人を貶めるような密告を行うもの。 そして、過度なストレスにより精神に異常をきたす将官。 これも実に生々しい話しですが、保身のための嘘を繰り返した者や、玉砕の地でさっさと投降して米軍の宣伝放送に加担した下級兵が、帰国の途にある輸送船から海に突き落とされたというエピソード(酒巻は伝聞により知る)は心が痛みます。

 第4章は帰国して郷里の徳島に帰るまで、そして、地元で嫁をもらい、新しい職を得た新天地に旅立つところで結ばれています。 軍国少年だった著者が屈辱的な捕虜になりながらも、豊かなアメリカ本土の文化と大自然に触れて、新時代の日本人として生まれ変わっていく姿が描かれた、本当に平和とは何かを考えさせてくれる一冊でした。 

 ただ、不可解な点もありました。 捕虜時代の自身の体験を正直に克明に記した本作ですが、彼自身に対する尋問の様子については どこにも、1行たりとも描かれていないのです。 酒巻は奇襲攻撃(アメリカ流に言うと”だまし討ち”)を仕掛けてきた日本軍の貴重な捕虜です。 彼に対する尋問は熾烈を極めたはずです。 ウィキペディアなどには、捕虜になった直後の彼の写真が掲載されていますが、それはたいへん異様な写真です。 屈辱的な捕虜となったはずなのに、写真の彼は奇妙な笑みを浮かべているのです。 そして、頬には無数の赤い斑点。 これは火の付いたタバコを押し付けられた跡で、捕虜虐待の証拠であるという説があります。 一方で、捕虜となった自分の写真を撮られることを恥じた酒巻が自傷したという説もあります。(ウィキは前者、山崎は後者の立場) 

 さらに酒巻は終戦後に帰国した際に、日本側からも度重なる事情聴取を受けています。 戦争が終わったとはいえ、米国でどんな証言をしたのか、どんな活動をしたのかは、日本側(政府? 旧軍部?)の関心も非常に高かったはずです。 そして米日両国の尋問は、酒巻にとっては決して心休まるものではなかったはずです。 酒巻の自宅には、彼の帰国を知った者から 「戦死者に詫びるつもりがあるなら、今すぐに割腹自殺せよ」といった内容の手紙が度々送り付けられていました。 捕虜になったこと自体もそうですが、捕虜としての屈辱的な尋問を受けた事実も、極限状態の尋問の際にどういう応答をしたのかということも、彼にとっては決して他人には漏らすことのできない秘密だったのでしょう。 


 最後に彼は、愛知県の自動車会社に請われて就職することになりますが、これはトヨタ自動車のことです。 本書によると、酒巻の元に『面談の後に希望の職にて採用させていただく』という、極めて破格の内容の”逆求人案内”が来たとのこと。 これは酒巻と海軍兵学校の同期で、同じ捕虜収容所にいた作家の豊田穣(当時は東海地方在住の新聞記者)によって酒巻のことを知ったトヨタ幹部が、『ぜひ我が社に』という事で採用されたという事らしいです。 ここで注意したいのが、当時のトヨタが まだ三河の単なるベンチャー企業だったという事です。 当時、日本で自動車産業が成立すると考える人は皆無で、名証のトヨタの株価は松坂屋や敷島パンより下でした。 しかし酒巻は、自分の第2の人生を『ひなびた田園の中で新生活をスタートさせるのもよい』と、新妻とともに三河に旅立つのです。 そして、この数奇な運命をたどった海軍士官は、今度は企業戦士として日本の再建に尽力し、結果としてトヨタのブラジル法人である トヨタ・ド・ブラジルの社長にまでなるのです。 なんという生きざまか。 山崎豊子が、”この人を書きたい”と願ったのがわかる気がします。


 予断ですが、「約束の海」では、主人公 花巻朔太郎の実家は、父親のモデルとなった酒巻の経歴により、愛知県の豊田市に設定されています。 朔太郎が帰省の時に、豊田市まで通じているはずの名鉄三河線を利用せずに(だって不便だもん)、名古屋本線の知立駅に迎えに来てもらうとか、その知立駅で名物の”大あんまき”を買って帰るとか、三河地方に住んでいる人にだけわかる ”あるある”感がとても楽しく、そしてまた、この花巻父子を少しだけ身近に感じることが出来るのです。 

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「隣人のゆくえ」を見に行きました [八月が来るたびに]

 下関空襲をモチーフに、”サラリーマン監督と40名の中高生によってつくられた” 「隣人のゆくえ -あの夏の歌声-」を見に、池袋のシネマロサに行ってきました。 9時すぎに池袋駅に到着、まず向かったのは東京芸術劇場。

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 昨日まで、尾身美詞さんが出演されていた 「その頬 熱線に焼かれ」が上演されていました。 せめてポスターかチラシが残ってないかな?と思っとったんですが、あいにく休館日。 泣く泣くあきらめてシネマロサへ。 と、映画館の前にずらーっと行列が。

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 現在、口コミで人気急上昇中の 「カメラを止めるな!」(写真右上)のチケットやTシャツを求めるお客さん達ですね。 仕方がないので、駅前に戻って星乃珈琲で一服。 この日も暑かったので、ガンガンに効いた冷房で生き返る。 10時前に戻ると行列も落ち着いていて、無事にチケットゲット。 ちなみに、「隣人のゆくえ」は前の週に上映されていた「この世界の片隅に」と相互割引制が取られていて、チケット購入時にもう一方の半券または前売り券を提示すると200円引きになるそうです。 いい企画ですね。 正直、「隣人のゆくえ」のような どマイナー作品、どこで見つけてこられたのでしょうか? しかも二日連続の舞台挨拶まで企画されて。 私も、下関空襲を研究した際に偶然見つけたんですけど。

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 今日は上演開始が11:30からだったので、もう一度駅前に。 高野フルーツパーラーの、夢に見た”桃パフェ”。 物がある時代に生まれて良かったよ。 そして、いよいよ上映開始。 本日は約20名くらいかな? オッサン率多し。

 正直、主人公が旧校舎に迷い込んだ時点で、あらかたストーリーは予想がつきました。 そして、ミュージカルといっても、そこはしょせん中高生。 音程は安定してないし、ハモってないし、映像とアフレコが合ってないし… セリフにしても演技にしても... とにかくアラを探そうと思えばいくらでも探せるでしょう。 でも、そんなの全然気にならない。 序盤からグイグイと画面に引き込まれていきました。 そして、ちゃんとした、こっぱずかしくない本物のミュージカル映画になっている! これは彼女・彼氏たちのひたむきさ、舞台となった梅光学院の歴史と魅力、その他もろもろが、本当に本当に奇跡的に融合した結果なんでしょうね。 これは狙っても出来ないと思う。 本当に、16歳にも満たない生徒たちが、自分の郷里の歴史と向き合い、真剣に大人と話し合ったからこそ出来たんでしょうね。 

 エンディングでキャスト・スタッフの横に実年齢が示されていますが、その若さにあらためて圧倒されます。 それは単に、”こんな若い人たちが創ったんですよ”とかいうだけではなく、”70歳まで生きられなかった人”たちへのメッセージでもあり、実際にこれくらいの年齢の人が亡くなっているんだよという暗喩でもあるんだなぁとも思えるのです。 主人公の名前(旧姓含む)や曾祖母の秘密にも、下関空襲や戦時の知られざるエピソードが掛けてあり、下関の歴史を知る人には、より深く刺さるものがあるのでしょうね。 この辺の創り方は、「この世界」とも共通していますね。

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 サントラCDも買ってきました(1000円)。 単独で聴いたらどうなるのでしょうか? 映画を思い出すかな? それとも笑っちゃうかな?  

 山口県さん、立派な芸術センターは出来たけど、こねいなやつを流さんと ”いけんそ”。 ちなみに下関の彼女たちが言うと ”いけんほ”になります。 (宇部から西は語尾が ”ほ”→西村知美など、 山口から東が ”そ”→マイマイ新子など)


(R元年7月13日追記) ここ数日、この記事へのアクセスが増えてきているので調べて見たら、ああっ! 今日から小倉の映画館で上演が始まるんだ。 同時上映が「この世界の片隅に」! ええのぉ、小倉のヒト。 映画館行ったらサントラCDも是非買ってね。 ぶち ええほ。 手書きコピーの歌詞カードが、また泣けるほいね。

 ほいで、名古屋でも春に上映しとったんと。 ああ、また行きそびれた。 もう、NHK BSプライムで上映して! 坂本アナ、あんた山口局におったろうが。


(R元年7月25日追記) 山口県さんの立派な芸術センター(山口情報芸術センター YCAM)で、8月1日~11日までの上映が決まりました。 舞台挨拶付きの日もあります。 やるじゃん、山口県。 今年は帰省しようかな...


(R元年9月11日追記) 本作で ”金子みすゞ”を演じた 吉田玲さんが、大林宣彦監督の最新作 「海辺の映画館」の主役に抜擢されたそうです。 本作も9月14日から、シネマロサでアンコール上映決定!

 ところで、8月28日に放映された「あさイチ」の ”#あちこちのすずさん”で紹介された、「ハイニコポン」のエピソード(「空襲」 女学校の思い出)。 戦時下で暗くなりがちな学校生活の中でも 担任の先生が、こんな時でも「ハイっと返事して、ニコッと笑って、ポンっと立ち上がりましょう」と励まし続けたという話。 その先生は、空襲で校舎が焼け落ち、生徒たちがふさぎ込んでいた時にもやっぱり「ハイニコポン」で励ましてくれ、みんなで仮の学び舎づくりに勤しんだということですが… 

これ、梅光女学院のお話しじゃあないですか! そして、このエピソードを投稿されたのが”上垣内”さん!! えっ、えっ? 偶然、これ?! 写真家の上垣内茂夫さんと関係ある? すごい縁! 

 NHK、がんばれ! 「隣人のゆくえ」放送してくれ!

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「原爆死」から「ビンの中のお父さん」へ [八月が来るたびに]

 今年の夏は例年にも増して、戦争や原爆を扱った優れた番組が多く放送されていたような気がする。 インパール、満蒙開拓団、沈没軍艦もの、交渉もの。 戦後72年、いよいよ戦災を知る人たち=語り部たちの生の声を聴く最後のチャンスとばかりに製作者側が躍起になったのか? それとも、技術の進歩により、これまで気付けなかった事実に光が当たり始めたからなのか? いや、実はこういう番組は昔から多く製作されていたけれども、単に自分が気付かなかった(興味がなかった)だけで、これは、「この世界の片隅に」という作品に触れた自分自身の意識が変わったからなのか… 今年の夏以降に放送された番組で、特に強く印象に残った作品について触れてみたい。

 NHKスペシャル「原爆死~ヒロシマ 72年目の真実~(放送:2017年8月6日(日) 午後9時00分(50分)、NHK総合)は、広島市が戦後72年間にわたって記録している55万人に及ぶ被爆者たちの記録 「原爆被爆者動態調査」をビッグデータ解析し、原爆投下直後から原爆によって亡くなられたと考えられる人々が、どこでどのように発生しているかを(その亡くなる直前の行動までを踏まえ)、日ごと追って行ったものである。 単純に”原爆死”した人々を平均値だけで語らずに、原爆という未曽有の災厄にさらされた個人の死にざまに焦点を当てた演出が秀逸であった。 俳優の新井浩文さんの乾いた語り口も、受け入れがたい現実を私たちの心に刻みつけるのに効果的だった。 今回のデータ解析により、いわゆる”黒い雨”などに曝されたと考えられる犠牲者が、これまで考えられていた範囲の外側にもいることが浮き彫りになっていく。 

 家族や知り合いを探すため、あるいは救護活動に参加して被爆した”入市被爆者”の中には、今なお、被爆者健康手帳の交付が受けられない人が多くおられる。 それは、爆心地近くに入ったことを証明できなかったり(個人で捜索活動にあたった すみはこれに該当する恐れがある)、国が被爆被害を認めた地域外で活動していたためなのだが、今回の研究により少なくとも後者に該当する人々の救済につながる可能性が見えてきたのだ。 それにしても、今回の番組の元になった広島市の原爆被爆者動態調査には恐れ入る。 投下後72年を経ても、我々は原爆と戦い続けていたのか! そして、記録に留めていくという広島市の静かな戦いは今日も続いていくのだ。

 BS1スペシャル「戦後72年の郵便配達」放送:2017年8月6日(日) 午後10時00分(50分) 、NHK BS1)は、対照的に戦災遺物の一刻も早い組織的な収集と記録が必要であることを私たちに訴える。 戦中、内地から戦地へ、あるいは激戦地から内地へ送られた「軍事郵便」の中には、送り先に届けられずに米軍に押収されたものが多く存在する。 それら郵便物の多くは玉砕の地で押収されたものだ。 日本の軍事情報収集に乗り出していた米軍は、捕虜にならずに玉砕してしまう日本兵の代わりに、これらの郵便物から必要な情報を読み解こうとしていた。 時には戦死した兵士の荷物の中の郵便物まで持ち帰ったという。 

 そして日本語を習得させた優秀な学生を総動員して解析に当たらせたが、厳しい検閲を通過した郵便には、もはや有用な情報はほとんどなかったという。 これらの莫大な数の軍事郵便は、近年、保管期限を過ぎたものから順次民間に払い下げられ、オークションによりコレクター達の間で取引されている。 この「故郷に届けられなかった郵便」がネット上で売買されている事実を知ったNHKのスタッフは、日本のコレクターと接触し、激戦地ごとに仕分けられた彼のコレクションの中の郵便物のいくつかを、72年の時を経て”本来の届け先”に届けようと奮戦するのだ。 なお、この日本のコレクターの本職は とある寺の住職で、彼は供養のために収集しているということだった… 

 番組スタッフの届け先探しは困難を極めた。 既に宛先そのものが存在していないものもあったようだ。 だが、何とか幾通かの手紙を無事に送り先に届けることに成功する。(番組HPによると、番組内では紹介しきれないほどの大変多くの方の善意によって送り先にたどり着いたという) 検閲を乗り越えた手紙の文面は、一見淡々と綴られているよう思えるが、その行間にどれだけの思いが込められているのだろうか? それを思うと胸が締め付けられる思いがする。 手紙を受け取った長野県出身のある女性は、送り主である兄が出征前に親に強く勧めてくれたおかげで学校に通うことが出来たという。 夢の中でしか会えなかった兄の手紙に触れ、彼女はあらためて感謝の涙を流す。

 太平洋戦争激戦地での遺骨収集は今、国の事業として行われている。 この、世界に散らばった軍事郵便の帰還とデータベース化も、先の住職のような個人の力には限界がある(なによりも、このような遺物が埋もれてしまう危険性がある)。 ぜひとも公的な活動として始めることは出来ないものか? すずが鬼ぃちゃんに送った絵手紙が、コレクター間で高値で取引されているとしたら… それはとても気持ちのいい話ではない。

(H30年8月1日追記) H30年8月19日午後9時よりNHK総合で、「届かなかった手紙~戦場から故郷へ 73年目の郵便配達」という番組が放送されます。 おそらくこの番組の続編ですね。

 ETV特集「描き続けた“くらし” 戦争中の庶民の記録」(放送:2017年8月19日(土) 午後11時00分(60分) 、NHK Eテレ)は、「戦争中の暮らしの記録」にカラーページで掲載された、東京都の勝矢さんが戦中の暮らしを克明に描いた絵日記をもとに、勝矢さんの一家が戦争をどう生き抜いたかを追っていく。 冒頭、「この世界の片隅に」劇場版と片渕監督のインタビューが紹介され、片渕監督が勝矢さんの絵日記を戦中の暮らしの描写の参考にされたという事を明かされている。

 勝矢さんは、まさに男版の”リアルすずさん”という方で、戦中の家族の日常をリアルに(しかもカラーで)描写されている。 「戦争中の暮らしの記録」に掲載されたイラストには家族の顔が描かれていないが、番組では家族全員のスナップ写真と勝矢さん自身の手による家族の精緻な肖像画が紹介され、視聴者はより親近感を持ってこの家族の戦中を見守ることになる。 番組の序盤、勝矢さん家族が戦争中なのにいきいきと生活される様が描かれる。 食料が困窮し始めても、配給の生ビール(5リットル!)を小学生の子供と一緒に飲んだり、貴重な牛肉は小出しにせずに一度にすき焼きにして楽しんだりと、まるで北條家のようなたくましい暮らしぶりが紹介される。 楠公飯を炊いた話もある。 

 だが、戦禍はこの家族にも徐々に忍び寄ってくる。 のちの”本番”の時には全く役に立たないと思い知らされる簡易壕での防空訓練。 学童疎開に出した長女が衰弱し、そのやせ細った愛娘を引き取りに行ったりと、やがてやってくる東京大空襲に、この家族はどうなってしまうのか? 視聴者は固唾をのんで画面を見守るほかない。 幸い、家族は無事に東京大空襲を生き延び、勝矢夫妻が天寿を全うしたと知って、視聴者はここで安堵するのだが… この家族の影で、記録を残す暇さえなく劫火に消えて行った幾十万の家族があったことに気付き、たまらない気持になる。

 「ビンの中のお父さん~被爆者調査の真の狙い~(放送:2017年9月24日(日) 午前2時00分(60分)、中京テレビ)は、ABCCの非人道的な活動に焦点を当て、そのABCCに父親の遺体を献体した女性が”父”と再会するまでを追った異色のドキュメンタリーだ。 ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)は、原爆傷害調査委員会と和訳されるアメリカの研究組織で、22年3月に結成された。 広島と長崎に研究機関を持ち、原爆症の本格的な研究に当たったが、その研究機関の名が好意的な文脈の中で語られることは少ない。 番組では、この機関設立の真の目的が被爆者救済ではなく、やがて来る第3次世界大戦=本格的な核戦争への備えであるという事を解き明かしていく。 そして、ABCCの悪名を決定づけた被爆者への非人道的な調査研究(それはまさに人体実験そのものであった)をつまびらかにしていく。

 彼らが主に狙ったのは被爆した子供たちだ。 徹底的な検査に加え、子供たちを大勢の研究者の前で全裸にして写真撮影を行った。 その”検査”は、彼ら・彼女らの成長に合わせ、毎年執拗に繰り返された。 このABCCの悪行の噂は年とともに一般の人にも広く知られるようになり、今回取材に応じられた ある女性は、屈辱的な検査に加え、学校から研究所に検査に行く際に、クラスの男子から『ストリップ! ストリップ!』と囃し立てられたことが、深い心の傷になったと涙ながらに語られていた。

 その悪名高きABCCだが、現在も名前を変えて存続している。 50年4月、日米共同の研究機関として「放射線影響研究所」(放影研)と名前を変えて再出発している。 現在の広島側の研究所は、ABCC時代と同じく、広島駅南東の比治山に その拠点がある。 ABCC時代の反省からか、放影研は開かれた組織としての活動に腐心しており、子供時代に比治山の研究所に招かれた広島市民も多いのではないだろうか。

 さて、番組のほうに話を戻すと... この夏、中京テレビの夕方のローカルニュース「キャッチ!」では、ABCCを何回か取り上げていた。 「なぜ、名古屋でABCC?」と疑問に思っていたのだが、実はこの番組取材の経過報告だったわけだ。 番組スタッフは、原爆症で亡くなった父の遺体をABCCに献体した女性が三重県に在住していることを何かで知り、この女性とコンタクトを取ったようだ。 自身も被爆者である女性は、「本当は嫌だったけど、”人のために役立つから”と何度も説得されて」 父の遺体をやむなくABCCに提供する。 しかし、後年、ABCCの悪い噂を耳にして、「父を献体したのは本当に正しかったのか?」と深く後悔するようになる。 そして、番組の取材に応じるうちに、放影研がABCC時代の遺体の調査結果を希望者に開示していることを知って情報開示請求する。 放影研から送られてきた膨大な資料は、専門知識のない女性にとっては全く意味不明だったのだが、この資料により父の遺体の一部がいまだ保存されていることを知るのだ。

 そして、女性は”父”との再会を果たすべく、故郷の長崎に向かう。 長崎大学医学部に保存されている無数の臓器標本の中で女性は”父”と再会し、語りかけるのだ。 「ビンの中の~」というタイトルには番組スタッフの心遣いが感じられる。 父親の臓器を納めてあるのは、瓶というよりも英語のbinのほうがふさわしい、”医療用バケツ”といったものだったからだ。 クライマックスで女性は研究者に問う、「お父さんの躰は本当に人の役に立ったのですか?」と。 番組では、海外を含めた複数の研究者の証言を紹介している。 「当時の貴重な組織標本があることで、必ず原爆症の治療に役立つことが出来ると信じている」 原爆との戦いは今もなお続いている。

 なお、この番組の取材がきっかけとなり、放影研の責任者である丹羽理事長が、H29年6月に行われた「ABCC-放影研設立70周年記念式典」に於いて、ABCC時代の非人道的な検査で精神的な苦痛を被ったすべての被験者に対して公の場で初めて謝罪したことを追記しておく。

(H29年11月25日追記) なお、「ビンの中のお父さん」は、12月17日(日)25:05~NNNドキュメント'17(日本テレビ)枠内、ならびに12月24日(日)11:00~(BS日テレ)、12月24日(日)5:00~、24:00~(CS「日テレNEWS24」)において再放送が予定されています。


(R元年6月3日追記) その放影研ですが、H31年の4月からメルマガをはじめたそうです。 放影研の活動から放射線全般について幅広く網羅していて、専門家から一般の方まで楽しめる内容だそうです。 開かれた放影研としての活動を模索されているのですね。 メルマガ登録は放影研のHPからできます。

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「夕凪の街 桜の国」放送 15日ファミ劇で [八月が来るたびに]

 今年も”終戦の日”に向けて、いろいろな番組や特集が放送されています。 こうのさんの「夕凪の街 桜の国」の劇場版が8月15日の12:10から”ファミリー劇場”で放送されます。 「はだしのゲン」のアニメ版とドラマ「東京大空襲」に挟まれての放送となります。

 コトリンゴさんの「”この世界の片隅に” コトリンゴの映画音楽 -完全版-」が15日深夜の25:00(16日午前1:00)からNHK総合で、そのコトリンゴさんも出演する「いのちのうた2017」が17日深夜の24:10(18日午前0:10)より同じく総合で放送されます。 

 そして事前の予測通り、「この世界の片隅に」の再上映も多くの劇場で始まっていますが、各地の自治体などが主催する単発の上映会も多数(8月4日付けの朝日新聞の記事によれば年末までに340会場以上)開催されています。

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 上記は愛知県豊田市の上映会のパンフレット。 私は、この上映会のことを朝日新聞の記事で知りましたが、朝日新聞は今夏、この作品に絡めた終戦特集記事を多く作成しています。 まあ、朝日新聞はエンドクレジットにも入っているし… 朝日新聞は、最終的に、こうの先生に従軍慰安婦の話しを描いて欲しいんだろうな... 今のところ、こうの先生は朝日と絶妙の距離感を持って仕事をされているとは思うんだけど。

 「この世界の片隅に」という作品自体(原作も劇場版も)も、絶妙なバランス感覚で作られています。 どんな立場・思想の人に対しても、そして(海外展開を見越して)どこの国の人に対しても、抵抗なく入って行けるような作りになっています。(なにせ、作中の人物は誰も”戦争反対!”なんて言ってないし) あくまでも、読んだ(視た)人自身で考えてもらおうというように。 これは、「夕凪の街 桜の国」が世に出た後に、作品自体やこうのさんという作家自身が、マスコミや論客を名乗る人たちによる都合の良い解釈に翻弄された苦い経験から来ているものなんでしょうね。 (「なぞなぞさん(”平凡倶楽部”収録)」参照)

 ”先の大戦”は、けっして、暴走した軍部や無能な政治家によって引き起こされたものではないと私は思います。 当時の日本人を戦争に導いたのは、自らの主張こそが正義だと振りかざしていた人々です。 彼らの恐ろしいところは、自らの立ち位置を示すことなく、自分たちの信じる”正義”こそが世界の普遍的な原理であると国民を先導することです。 彼らの本性は、この時代になっても、多少 右が左になっても全く変わってないと思います。 本当に、おかしいなと思ったら、自分で調べて自分の頭で考えないと。

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模擬原爆とミス愛知(その2) [八月が来るたびに]

 もう一つの展覧会は豊川市の桜ヶ丘ミュージアムで開催されています。

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 「青い目の人形と答礼人形 里帰り展」です。

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 青い目の人形は、日米関係が悪化し出した昭和2年に日米友好のしるしとして米国人宣教師のギューリックが中心となり、12,700体がアメリカから贈られました。 これに対し、日本からは渋沢栄一が中心となり58体の市松人形が返礼として贈られました。(日本側の数が少ないですが、日本の贈った人形は後の人間国宝になる人形師さんが作られた、家が一軒建つくらいのものです。) この民間の交流は緊張した日米関係に束の間の安らぎを与えましたが、歴史の流れを止めることは出来ず、多くの青い目の人形が”敵国のスパイ”として壊されたり、戦災で焼失しました。 その中で、人形には罪はないと密かにかくまわれた人形たちが戦後相次いで発見されたのはご存じのとおり。 現在、日本国内に334体の青い目の人形の存在が確認されています。

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 現在、愛知県には10体が現存しますが、そのすべてがこの展示会に展示されています。 一方、日本から贈られた答礼人形も、いくつかは消息が分からなくなっていました。 そのうちの一つ、”ミス愛知”と名付けられた市松人形がH22年、アメリカ ロードアイランドのオークションで発見されました。

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 発見時のミス愛知は、ご覧のような状態でした。 黒髪の代わりに洋風のかつらを、着物の代わりにドレスを着せられていたそうです。 日本の青い目の人形のように、かくまわれていたのでしょうか? このミス愛知を何とか日本に里帰りさせようと奮闘されたのが、青い目の人形の研究をされていた元中学教師の夏目勝弘氏です。 

 氏を中心として「答礼人形を里帰りさせる会」が組織され、「この世界の片隅に」劇場版でも活用されたクラウドファンディングの助けも借りて、ようやく里帰り展が実現されることになりました。 ミス愛知も日本の人形師さんの手によって修復され、愛知県に現存する青い目の人形10体、ギューベック宣教師のお孫さんによって始められた”新”青い目の人形 5体の出展も決まり、いよいよ展示会まで あと 一月というときに、夏目氏は病気で他界されます。 …というような話を、ここ数日 東海地方のローカルニュースが繰り返し報道していたのでした。 国どうしは喧嘩していても、鬼畜米英と叫んでいても、心の底では絶対につながれるはず。 そんな日米の民間交流をあらためて垣間見ることが出来ました。

 本当にいい展示会でした。 この里帰り展は豊川を皮切りに、9月10日まで愛知県の4つの会場を巡回する予定です。

 国どうしは戦争していても、どこかで友情の根はつながっている。 そんなエピソードが呉にもありました。

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 この、一見異様な檻の中に入れられたお墓。 呉の長迫海軍墓地の中にある、”英国人水兵の墓”です。 これは明治40年(1907年)、戦艦安芸の進水式に招かれた当時の同盟国である英国の軍艦から転落・水死された水兵を弔ったものです。 当時の旧日本海軍は最大限の敬意をもって、この水兵の霊を弔いました。 時は移ろい、英国と敵対関係となった第2次世界大戦中も海軍はこの水兵の墓を守り続けます。 鬼畜米英の墓がこの地にあることを心よしと思わない人々によって、この墓は度々イタズラ(というより破壊工作)に遭いますが、海軍はご覧のような檻を作って墓を保護するのです。

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 所変わって、こちらは水原の兄も通ったであろう、江田島の旧海軍兵学校の大講堂。 

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 大正6年(1907年)に建設されたこの総御影石造りの立派な講堂は、今でも海上自衛隊の幹部候補生の卒業式などに使われています。 20年7月24日からの呉沖海空戦では、江田島沖の軍艦は攻撃されましたが、この海軍の幹部養成校であった兵学校は狙われることはありませんでした。 一説によると、水兵の弔いに恩義を感じた英国側からアメリカ軍へ進言があったとか、なかったとか。

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 いま、旧海軍兵学校(現第1述科学校)の校庭には、日英同盟締結100周年の記念樹が植えられています。


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 桜ヶ丘ミュージアムでは、今、もう一つの展示会も開催されています。 豊川工廠展です。 豊川工廠は主に砲弾や弾丸などの兵器を製造していましたが、広島の原爆投下の翌日の8月7日に大規模な空襲を受け壊滅します。 女子挺身隊や朝鮮人徴用工を含む多くの人が犠牲になりました。 当時を体験された方の絵を中心とした展示がされています。

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 投下された爆弾の破片。 1/2インチくらいの厚さです。 いかにパンプキン爆弾が大きかったかがわかります。 奇しくも同時期に同じミュージアムで開催されている二つの展示会。 いずれも平和の尊さを考えさせてくれる展示でした。 両展示会とも、かなり


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でした。 

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模擬原爆とミス愛知(その1) [八月が来るたびに]

 真夏が、八月が近づくにつれ、東海地方のローカルニュースでも先の大戦を振り返る催しやイベントを報じるようになりました。 そのうち、特に興味深かった二つの展示会に行ってみました。

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 一つ目は、豊田市の産業文化センターで開催された、「豊田市平和を願う戦争展」です。 連動企画として、8月6日に豊田市福祉センターで劇場版の上映が企画されているとのこと。 豊田市教育委員会がバックについているので、大人1000円で鑑賞できるそうです。 うーん、京都行ってるワ、その日。

 さて、今回の展示の目的は、劇場版のパンフレットをもらうことではなく、終戦間際… 20年8月14日の午後に豊田市に投下された、”模擬原爆”=パンプキン爆弾を見に行くことです。

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 この爆弾は、豊田市(当時挙母町)にあるトヨタ自動車本社工場を狙って投下されたものだと言われています。 1発目が現トヨタ会館の南側(当時のトヨタさんの社宅があった所)、2発目が渡合町(現在の豊田ジャンクションから新東名に向かう途中の大きな橋の近く)の集落、そして3発目がトヨタ自動車の本社工場内に落ちました。 トヨタさんでは、午前中に戦闘機の襲撃があり、社員が皆避難していたため、犠牲者はいなかったとのこと。

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 こちらが2発目の破片。 民家の壁に突き刺さっていたものを、その民家の所有者が保管されていたもの。 触らせていただきました。 厚みが2インチくらいある鉄片です。 パンプキン爆弾は、長崎に投下された”ファットマン”と外形・重量が同じで、原爆投下時の航跡を調査するための”模擬原爆”として、国内の数カ所で投下されていました。 終戦直前の投下(米軍は、この日までに日本の降伏を把握)は、パンプキンの通常兵器としての性能を確認するためだったとも言われています。

 丁寧に説明していただいた豊田市の冨田さんによれば、当時の(B-29の空襲拠点となった)テニアン基地には原爆が無くなっていたので、アメリカ本土まで3発目・4発目を取りに行っていた最中だったとのこと。 もし戦争が長引いていれば、豊田市にも原爆が投下されていたかもしれないとのことです。

 確かに。 たとえば、呉工廠の空襲の際は兵器廠は爆撃しましたが、戦後活用できそうな造船ドック(大和のドック)は、そのまま手付かずで残していました。 じゃあ、日本の自動車工場は? 当時、日本に自動車工業が根付くとは(豊田 LEADERS 喜一郎さん以外)誰も思っておらず、アメリカにしてみれば全く利用価値のない工場でした。 本当に、豊田市が第3、あるいは第4の被爆地になっていたのかもしれません。

 皮肉なことに朝鮮戦争時には、アメリカは このトヨタ本社工場で生産されたトラックを最も多く購入して、戦後のトヨタさんの財政状況健全化に大貢献するのです。 戦後、ドッジ不況と労働争議により倒産寸前まで追い込まれていたトヨタですが、人員整理と経営陣の退陣を条件とした日銀の支援により倒産をかろうじて免れます。 その直後の25年6月25日に勃発した朝鮮戦争により情勢は一変。 日本を後方支援基地としたアメリカ軍のトラック大量注文により、一気に息を吹き返すのです。(この辺はTBSのドラマ「LEADERS」で詳しく説明されていますね。) 当初、アメリカの注文はディーゼルエンジン車を得意とする いすゞや日野が獲得するのではないかと言われていましたが、蓋を開けてみると 米軍は補給上の都合からガソリンエンジン搭載のトラックを希望。 偶然、ガソリンエンジンのトラックだけ造っていたトヨタさん(しかも大規模生産ラインが空いている←売れてなかったから)に白羽の矢が立つのです。 

 9月、当初500台の予定だった米軍特需は1000台に拡大、そのすべてをトヨタが総取りします。 10月末時点での特需は、トヨタ 3329台、日産 2915台、いすゞ 815台となりました。(以上 東洋経済新報より抜粋) まさに、アメリカ軍がトヨタ本社を完全に破壊しなかったことで、トヨタは米軍に救われるのです。

 その他、豊田市内にあった飛行場のこと、軍事施設のこと、それらの整備に動員されていた朝鮮人労働者のこと、機銃掃射で亡くなった少女のこと… 私よりも お年を召した皆さんが手作りされた資料が多く展示されていました。 ここにも努力して語りを繋いでいこうとする方が多くいらっしゃいました。 9条死守のコーナーもあって、少し


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かな?

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原爆ドームと原爆死没者慰霊碑 [八月が来るたびに]

広島バスセンターから徒歩3分。 

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自分は原爆ドームをまじかに見るのは初めてでした。

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すずと周作が出会った相生橋と原爆ドーム。 相生橋のT字の部分を渡ってドーム対岸の中州には平和記念公園が あります。

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原爆死没者慰霊碑から平和の灯越しにドームを眺む。 碑の中には碑文が。

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「過ちは繰返しませぬから」という この碑文には、特に右側の人から異論があるそうですが… 私はいい言葉だと思う。 平和も安全も自らの意志と行動によって得られるのだから。

記念公園から広島平和記念資料館と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を見学します。 個人的に被爆者への医療支援がどうだったかが気にかかって、いろいろ調べます。 なお、両館とも資料室があり、関連文書を読むことが出来ます。 こうのさんの著作や劇場版の絵コンテ集も置いてあります。 私が小学校の時に、”怖い”と評判だった「八月が来るたびに」という本を見つけたので見てみると、あまりにもポップな挿絵にビックリ。 そして、その挿絵画家が”ゲージツ家のクマさん”こと篠原勝之さんだったので二度ビックリです。

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記念公園を後にして南へ向かうと、東と西の平和大橋が。 この東側の「TSUKURU(昇る太陽)」は、「夕凪の街 桜の国」でもお馴染みですね。

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その平和大橋は、北側(ドーム側)に歩行者専用橋をかけて車道を広げる予定だそうです。 さて、広島を後にしていったん山口に帰省。 実は山口にも原爆死没者を慰霊する碑があります。

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山口護国神社の近くに人知れずたたずむ”原爆死没者の碑”、49年に建立されました。 当時、山口県は原爆死没者が全国で3番目に多いとされていました。(現在は被爆された方が都会に移られたこともあり、東京・大阪・福岡のほうが多いらしい) 

この碑が建立された頃は”戦後30年”と言われていましたが、当時 小学生だった私には遥か昔の話に思えました。 今、30年前というと... 鈴鹿のF1が初めて開催された年。 当時は無敵だったウイリアムズ・ホンダの凱旋レースで盛り上がる予定が、マンセルはFPでクラッシュ→欠場。 ピケはずっとセナに抑え込まれてエンジンブロー。 フェラーリのメカニックが大笑いしてたっけ。 !! まるで、昨日のことのように覚えている。 大人の人にとっては、まさにそれくらいの時代感だったんですね。

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